マブラヴ 未来への咆哮 episode:18 「幾千の夜の先へ」 <LRさん>
――2001年12月13日(木)
未だ自然が残る箱根。早朝、重々しい曇天の下、箱根の山林は濃い霧に覆われていた。その朝霧に閉ざされた山林の中に動く影が一つ在った。
ボロボロになった黒い服を纏い、白髪の頭を力無く項垂らせたまま、全身を引き摺る様にして前に進む一人の男。……その男の名は、白銀武と言った。
まるで、何十年も苦行の旅を続けてきたかのような疲れ果てたその姿を見て、誰が彼がたった一晩でこのような姿に成り果てたと分かるだろうか?
――ズルッ、ドサッ!
湿った山肌で足を滑らせた武が転んだ。……だが、武は立ち上がろうとはしない。いや、正確には違う。立ち上がることが出来ない。
横浜から箱根までを一晩で走破した武の体は、既に限界を越えていた。今まで立っていたことすら不思議なくらいに。
――ズズッ、ズリッ
それでも、武は止まろうとはしない。倒れたまま、這って進み出す。……だが、それも束の間の事だった。武の身長分も進まぬ内に、武はピクリとも動かなくなる。極度の疲労から気絶したようだ。
――パタッ、パタタッ
と、枯れ葉を水滴が打った音が続けて聞こえた次の瞬間、ザァーーとかなりの勢いの雨が降り始める。
冬の山の雨は冷たい。このままでは、武の命が危険だ。だが、こんな山中で彼に救いの手が差し伸べられようはずも無い。………普通ならば。
「おやおや、こんな所で寝ていたら危ないぞ、白銀武? ……それとも、人に踏まれて喜ぶ性癖があるのかな?」
そんな暢気な言葉と共に、武に直接当たる雨が幾分か減る。いつの間にか、武のすぐ側に立っていた男性がさしている傘のおかげだった。
「……それにしても、私の飼い主は犬使い、もとい人使いが荒い。そうは思わないかね、白銀武?」
そんな事を言いながらその男性、鎧衣左近は気絶した武を担ぎ上げる。
「とは言え、美しい女性に振り回されるのも、男冥利に尽きると言うものだ。なあ、白銀武」
当然の事ながら気絶している武からの返答は無い。だが、別段気にした様子も無く左近は歩き出す。
「さて、では行こうか、白銀武。――私の麗しき飼い主の元へね」
武を担いだ左近は、そんな言葉を残して雨の中消えて行った。
――2001年12月15日(土)
日本帝国の首都である帝都東京、その中心にあるのが、天子、皇帝陛下が座する帝都城だ。そして、その帝都城を守護するかのように、煌武院、斑鳩、斉御司、九條、崇宰、五摂家が帝都城の周囲五方に居を構えている。
その内の一角、煌武院邸の一室で、一人の男が目を開けた。
「………」
だが、その目は何一つ映してはいない。否、眼球は正常に機能している。
視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚、五感の全てに、何の支障もない。にも関らず、その男は何も感じていなかった。
――――彼、白銀武は全てを拒絶していた。
「――失礼致します。……えっ、起きておいでなのですか!? じ、侍従長、あの方がお目覚めのようです!」
と、煌武院家の女中と思しき女性が武が寝ている部屋に入ってきて、武の目が開いている事に気付くと、侍従長を呼びに部屋を出ていく。……その事にも、武は全くの無反応だった。
「………」
「あの者の容態は如何でしょうか、典医殿?」
女中に呼ばれて医者を伴い武が寝ている部屋にやって来た侍従長は、武の診断を一通り終わらせた帝家や五摂家付きの御典医を勤めるその医者に、武の容態を聞く。
「……単純に、肉体の状態だけで言えば、極度の疲労です。それは昨日の診断から何ら変わりありませぬ。ですが、問題は精神の方ですな」
「……精神、ですか」
「左様。……この男、既に生きる事を放棄しております。生きる意志無くば、回復は望めませぬ」
「……どうにかなりませぬか?」
「……ただ生かす事は出来ましょう。ですが、それは「死んでいない」と言うだけの事。それ以上は…………」
「………」
典医の言葉に侍従長は痛切に沈黙して、診断の時も全くの反応を見せなった武を見やる。典医の診断を、悠陽にどのように伝えるか悩みながら。
昨日、秘密裏に煌武院邸に運び込まれた武は、侍従長の短くはない人生の中でも見た事も無いほどの、襤褸切れのように疲弊しきった状態だった。そして、その武の姿に最も心を痛めていたのが、主君である悠陽である事を知っている。
12・5事件以来、将軍職に本来の権限が返上された事により、悠陽の責務も今まで以上に大きく重くなった。そんな折に、要らぬ負担を増やす訳にはいかない。しかし、武が目を覚ましたら、すぐに伝えるよう悠陽に厳命されている。
「……何故、おまえのような無礼者なのでしょうね」
侍従長は気付いている。悠陽が武に抱いている感情に。悠陽自身は未だ自覚出来てはいない想いに。だから、武の容態を秘したり偽っても無駄だと解っていた。
「私は今より殿下の元へ参ります。後を頼みましたよ」
武が寝ている部屋から静かに出た侍従長は部下に後を任せて、悠陽に武が目覚めた事を告げる為、帝都城に参内する用意を始めた。
この日の悠陽の政務が終わったのは、深夜になってからだった。将軍職に就いた悠陽は現在、帝都城にて寝食を採っているのだが、この日は煌武院邸に帰宅した。
「……白銀は、あの部屋ですね」
「……はい、殿下」
早足で武が寝ている部屋に向かう悠陽に、後ろに控えた侍従長が答える。結局、侍従長は悠陽に包み隠さず武の容態をありのまま伝えた。
動揺を表には出さなかったものの、明らかにその後の悠陽は気が急いていた。そして今日の政務が終わってすぐ、煌武院邸に戻ってきたのだ。
「……白銀、入りますよ」
武が寝ている部屋の前に立った悠陽は、そう告げてから静かに障子を開ける。部屋の中には、今朝、目を開いた時から何一つ変わり事なく、全てを拒絶した武が居た。
「―――」
変わり果てた武の姿に、悠陽は言葉を失う。
「………白銀」
ようやく紡げた僅かに震える声は、武に何の反応も齎さずに、静寂に満ちた室内に溶けて消える。
「殿下、最早、あの者……」
「―――下がりなさい」
侍従長の言葉を強く遮ってから、悠陽は室内に足を踏み入れ、寝ている武の傍らに座った。
「…………かしこまりました」
侍従長は悠陽の背中に声をかけてから、静かに障子を閉めた。
「………こんなに髪を白くして、………そなたの身に、何があったと言うのですか、白銀?」
武の色素の抜け落ちた白髪を優しく指先で梳きながら、悠陽は武に語りかける。
「………そなたの身を襲った痛苦が如何程の物か、私には解りません。けれど、そなたは生きています。………ここで寝ている暇など、そなたには無い筈でしょう?」
悠陽の震える声にも、武は光を失った虚の瞳を天井に向けたまま、何一つ応えない。
「―――ッ。………白銀、そなたの力を、多くの者が必要としています。それなのに、そなたが全てを投げ捨てるような振る舞いをする事が、赦されると思っているのですか!? ………沙霧大尉より託された意志は、そのように軽いモノなのですか!? ………答えなさい、白銀!!」
武は、何も答えない。……まるで、屍のように。
「…………白銀、何がそなたを、そこまで変えてしまったのですか?」
武と共に居たのは、一日にも充たない時間だった。出逢った時は、驚かされた。あんな風に抱き締められたのは、初めてだったから。今は亡き両親や、敬愛する祖父に抱き締められた事は有る。けれど、あの抱擁は、そのどちらとも違った。……そして、少しも嫌だと感じなかった。
緊迫した状況の渦中にあって、武と共に居た時間は心地好かった。武には、「壁」が無かったから。今の悠陽と本当の意味で「壁」無しに接する者は居ないから、尚更に、武の「壁」の無い気安さが心地好かった。
あの悲劇しか生まなかった戦いの中で、武の優しさを知った。武の強さを見た。……武の悲しみを聞いた。
そして武に、「未来」を拓くような眩しい輝きを感じた。だからこそ、武の変貌が、悠陽はただ悲しかった。
将軍として、五摂家の一員として敬われていながら、たった一人の心を救えない自分の無力が恨めしかった。武がこんなになるまで追い詰められていたのに、手を差し伸べる事すら出来なかった事が辛かった。
「………白銀、どうすればそなたは、今一度立ち上がれるのですか? ………どうすればそなたは、生きる意志を取り戻せるのですか?」
武の光を失った虚の瞳を覗きこみながら、悠陽は悲しみに震える声で呼び掛ける。……それでも、武は何の反応も示さない。
武は生きる事を放棄していると、生きる意志を失っていると、御典医が診ていると侍従長から聞かされた。武は、何か大事なモノを失ってしまったのだろう。それが原因で、生きる事を放棄していると、生きる意志を失っていると、推測する事は出来る。
だがそれは武が、「現在」なお続いているこの世界で、生きる意味を、生きる理由を見出せないと言う事だ。
この「世界」は武の力と才を必要としていると言うのに。武を帝国、いや悠陽が秘密裏に保護したのも、夕呼からの要請があったからだ。
12・5事件後、オルタネイテイヴ第4次計画の責任者である夕呼と政威大将軍である悠陽との間に直通通信回線が敷かれた。その中で、悠陽は武の功績、成果を幾つか知った。それは悠陽が感じた「輝き」が、本物である事を確信させるほどのものだった。
そして、12日の深夜、その直通通信回線で緊急の要請を夕呼から受けたのだ。その内容が、横浜基地から逃げ出した武を秘密裏に保護して欲しいと言うものだった。その通信で、夕呼はこう言った。
――殿下、本当に困った事なのですが、白銀少尉が居なければ、オルタネイティヴ4の完成、延いては人類の勝利はあり得ません。……ですから、白銀少尉の保護を早急にお願い致します。
ちなみに武の居場所は、武の軍服に仕込まれていた発信機によって把握されていた。
……武は必要とされている、この「世界」に。けれど、武は違うと言うのだろうか? 武はこの「世界」を必要としていないのだろうか? ………この「世界」には、最早、武の生きる理由になる物は無いと言うのだろうか?
「………白銀、冥夜を始めとしたそなたの仲間や、………私では、「現在」を生きる命では、そなたの生きる理由には、ならぬのですか!?」
武の心に何一つ届かせる事の出来ない悲しさから、悠陽の悲痛な叫びと共に涙が一滴、武の顔へと………零れ落ちた。
武の心は、深海の底のように暗く冷たく重い絶望の汚泥に沈んでいた。武の心に刻まれた無数の傷口から汚泥は染み入り、生きる意志を奪っていく。
――ただ、護りたかったんだ。ただ、助けたかったんだ。
武の護りたかった「世界」は、異邦だったこの世界で出会い、心を通わせた人達だった。武の掴みたかった「未来」は、その人達と共に在った。
けれど、ただの一度も「世界」を護れた事は無かった。ただの一度も「未来」を手にする事が出来なかった。
どれだけ手を伸ばしても、大事なモノは全て指の隙間から零れ落ちていく。残ったモノは、誰一人護れず、何一つ救えなかった無力な自分だけだ。
身を裂くような怒りに、心を折るような悲しみに、魂を砕くような絶望に膝を折らず、歯を食いしばり耐えられたのも、護りたい物が在ったからだった。
そして、戦いの先に、「未来」が在ると信じていたからだった。………だが、その「未来」を閉ざしていたのは他ならない自分だった。
――みんなが、オレを生かしてくれたのに。みんなが、オレに「未来」を託してくれたのに。それなのにオレは、………何も出来なかった。
誰もが夢見る。「世界」と言う舞台で、自分が「特別」な役割を持つ事を。そして、武には彼が望んで止まなかった、「未来」を拓く「救世主」と言う役割が与えられていた。それなのに、自分が「未来」を拓く可能性を台無しにしていた。目を閉じて耳を塞いで、「未来」へと続く扉を素通りしていたのだ。
自分の手に「未来」への扉の鍵が有るなんて知らなかったから、自分の持つ常識と価値観が全く違う世界に突然放り出されたから、そんな言葉で逃げれる程、失った物は、託された物は軽くない。
武は死力を尽くした。自分の成し得る全てに死力を尽くした。それは誰も疑う余地は無いだろう。だが、それも無意味なモノだったと、思い知らされた。………この上も無い「人類滅亡」と言う形で。
――もう、いいよな? ………もう、オレに出来る事なんて、何も無い。………オレには、何も残っちゃいない。だから、もう……………
最早、武に戦う意志は、生きる意志は無かった。……沈んでいく。全てを拒絶しながら、底など無い絶望の汚泥の深遠へと。
………白銀、どうすればそなたは、今一度立ち上がれるのですか?
………どうすればそなたは、生きる意志を取り戻せるのですか?
――だが、そんな武の心に、蜘蛛の糸の如くか細く弱々しく、けれど真っ直ぐと届く想いが在った。
――もう、赦してくれっ! もう、勘弁してくれよっ! オレには、誰も護れないんだっ! オレには、何も救えないんだっ! ………オレには、もう何も、残っちゃいないんだよっ!
しかし、武はその想いすら拒絶しようとする。そして、自分から絶望の深遠へと沈んでいこうとする。
――もうオレを、この狂った「現実」から、解放させてくれっ!
武は、この狂った「現実」の破綻が近いのを感じ取っていた。今回、今まで一度として無かった『記憶』の流入が発生したのも、「繰り返し」のシステムが破綻し始めている証だろう。
つまり武は死に続ければ、いつかこの狂った「現実」からも解放されるかも知れない。そんな確証など無い事にでも縋りたかった。それで良い、と武は思った。そしてそれ以外、武の選び取る選択肢は残されていなかっただろう。
続く想いが届かなければ。だが、その想いは、届いた。武の心が死ぬ前に、武の魂が朽ちる前に、確かに届いたのだった。
………白銀、冥夜を始めとしたそなたの仲間や、………私では、
「現在」を生きる命では、そなたの生きる理由には、ならぬのですか!?
――「現在」を生きる命だけが持つ、温もりと共に。
「……うあ………ああっ………」
「!!? ――し、白銀!!?」
生きる意志を捨て、全てを拒絶している筈の武の口から呻きが漏れた事に、武の目が自分を捉えている事に悠陽は驚く。しかしその驚愕は、すぐに抑え切れない喜びに変わる。
「白銀、私が判りますか? 私の声は聞こえていますか?」
悠陽の喜びに感極まった声に応えるように、武がゆっくりと悠陽に手を伸ばす。
「……ああ………ああっ………」
「………白銀?」
武の掌が悠陽の頬に触れる。……そこには、確かに温もりが在った。
「!!? し、白銀、な、何を!!?」
その温もりを確かめた次の瞬間、武は疲弊しきった体のどこからそのような力を絞り出したのか、悠陽の体を自分の方に引き込み、組み敷く。
そして、武は組み敷いた悠陽の着物に手を伸ばす。武の手で襦袢の衿までが大きく開かれ、悠陽の胸が曝されてしまう。
「―――ッ」
そんな武の行動に悠陽は声を上げないよう耐えていた。組み敷かれた時は、突然の行動に驚き声を上げてしまったが、その時、武の目を見た瞬間に悠陽の覚悟は決まった。その縋るような眼差しを見た瞬間に。
武の心が負った傷を癒せるとは思えない。けれど、その痛みを少しでも和らげる事が出来るのなら、悠陽に自身を差し出す事への躊躇いは無かった。
悠陽は自分に覆い被さってくる武を、瞳を逸らすことなく真っ直ぐと見る。自分の意志で受け容れた事を証明する為に。
武の頭が悠陽の胸に乗る。………そして、それきり武は動かなくなる。
「………白銀?」
動かなくなった武を訝しんだ悠陽は声をかけながら、自分の胸に頭を乗せた武を覗きこんだ。これが一般的な閨の作法なのでしょうか? と少し的外れな疑問を抱きながら。
「……生き、てる……生きてる……生きてる生きてる生きてる生きてる生きてる………」
武は泣いていた。悠陽の左胸に耳を当て、その鼓動を聞きながら。
「……い、生きて………生きてるんだ………」
流れ込んだ『記憶』の、死の情景が、その時の想いが余りにも生々しく鮮明で、だから武は一つの「事実」を見失っていた。純夏が、冥夜が、千鶴が、慧が、壬姫が、美琴が、まりもが、ハルが、悠陽が、護りたい者が、この「世界」で「現在」、「生きて」いる事を。
余りにも都合の良い話だと、武は思った。武は護れなかった。救えなかった。それは決して変えられない「過去」だ。何者も何者の代わりには成り得ない。それが例え「同一人物」であったとしても、「現在」を生きる者たちは「違う」のだ。
だが、そんな理屈で割り切るには、今、武の感じている温もりは、心に深く沁み入った。武の聴いている鼓動は、魂に強く響いた。
―――いけない事だろうか? この温もりを、鼓動を、「現在」を生きる「命」をどうしても護りたいと希う事は、赦されざる事なのだろうか?
「……ゆ、悠陽、オ、オレは、い、生きても、良い、かなぁ? ……オレに、み、みんなを、護る、資格、あるかなぁ?」
嗚咽と共に零れ出た武の言葉に、悠陽は武の頭を優しく胸に抱きながら答えた。
「――人は、どのような「過去」があろうとも、生ある限り「現在」を生き、「未来」へ進むしかない。……私の尊敬する一人の師の言葉です」
――人は、どのような「過去」があろうとも、生ある限り「現在」を生き、「未来」へ進むしかない。……我が師、萩閣中将の言葉だ。
「だから生きなさい、白銀。生ある限り、そなたの全てを以て生き抜きなさい」
――だから生きろ、白銀。生ある限り、貴様の全てを以て生き抜け!!
その言葉は、いつか示された指針。武の心に、確かに刻まれていた道標だった。
「……そして、白銀。そなたの心に一片の偽り無く、一点の曇り無くその想いが在るのなら、それこそがそなたの言う「資格」であり、何者も侵す事の出来ぬ、そなたの「真実」でありましょう」
「……ああっ、うあああっ、ああああああっ、あぅあぁあああああああああっ」
――「全て」を失くしたと、そう思っていた。実際、失ったモノは数知れない。虚数空間の果てへと弾き飛ばされ、「無かった」事にされた12回の「繰り返し」の中で。
それでも、絶望の汚泥に呑み込まれ打ちのめされても、決して失っていなかった想いが在った。「白銀武」は例えどんな「世界」に居ても、どんな「存在」になっていたとしても、純夏を、冥夜を、千鶴を、慧を、壬姫を、美琴を、まりもを、ハルを、悠陽を、自分の大事な人達を護りたいと言う、単純な想い。
本当に都合の良い「真実」だ。だが、それを承知で、「全て」を背負って、「全て」を呑み込んで、「全て」を受け容れて、「現在」を生き、「未来」へ進もう―――
「………うあああっ、す、すまねえ、……すま、ねえ……すまねえ、すまねえ……すまね、え……すっ、すまねえ、すっ、まねえっ」
………それでも今夜だけは、「傷の痛み」のまま泣く事を赦して欲しい。虚数空間の果てへと弾き飛ばされ、「無かった」事にされた12回の「繰り返し」の中、武は一度も泣けなかったのだから。
泣いてしまえば、そのまま倒れ込み二度と起き上がれる自信が無かったから。だから、歯を食いしばり膝が折れそうになるのを堪えながら、生きて進み続けた。……けれど、本当は、武は泣きたかった。弱音だと解っていても、ただ泣きたかった。
「………すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえ、すまねえっ」
だから、武は泣いた。今まで泣けなかった分まで。決して届く事の無い言葉を涙と共に零しながら。柔らかく優しい温もりに包まれながら。
――2001年12月16日(日)
朝日の光が障子越しにオレの瞼を刺激して、緩やかにオレの意識を覚醒へと導いていく。とは言え、何か解んないけど、オレはスッゲエ幸せな温もりと柔らかさに包まれてるんで、もう少し寝てたい気分なんだよなぁ〜。
「……んっ、んん〜〜っ」
オレは今、枕にしてる柔らかいモノに顔を擦りつけるようにして、二度寝に入ろうとした。
「し、白銀、その、そのように動かれては、………困ります」
柔らかくて優しい、けれど芯の通った凛とした声の持ち主が、本当に困ったような声音でオレに声を掛けて来た。その声の主は本当に困ってるみたいなので、しょうがなくオレは、後ろ髪引かれる思いで意識を覚醒させ、目を開けた。
「おはよう、白銀。目が覚めたのですね」
「――――――」
で、絶句した。そりゃそうだろう。オレの目の前で悠陽は柔らかく微笑んでる。ここまでは良い(良いのか?)。けど、悠陽は胸をモロ出しで、つうか、オレはその胸を枕にしてて、その前にオレは悠陽を抱き枕よろしく抱き締めたままで、………一体、何がどうなってんだ!!?
…………オーライ。落ち着け、オレ。って、落ち着けるかっ!!!
「す、すまねえ、すぐ退くって、あっ、あがぁ〜〜〜っ!!?」
慌てて悠陽を抱き締める手を解いて、悠陽の体の上から退こうとしたオレを襲ったのは、物凄い筋肉痛だった。
「無茶はなりません、白銀。そなたは安静の身なのですから」
「あ、安静? い、一体どういう――」
そこまで口にした所で、「全て」思い出した。………ぐあぁぁぁぁぁっ、穴があったら入りてえぇぇぇっ!! なんてみっともねえ姿、悠陽に見せちまってんだよ、オレはっ!!
「―――と言うのが、今の状況です。分かりましたか、白銀?」
……正直、物凄く居た堪れない心境のオレだったけど、それでも頑張って悠陽の上から退いて、悠陽に布団から出てもらって服直してもらってから、今の状況の説明を頼んだ。……月詠さんに知られたら、必殺確定だよな、この状況?
とにかく、横浜基地を逃げ出したオレは、13日に夕呼先生の要請で悠陽達に保護されて、昨日ようやく目覚めたって訳か。で、昨日の夜………うがぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!! カッコ悪いぞぉ〜〜〜〜、オレ!!
「ええ、殿「白銀、私と二人きりの時は、名を呼んで良いと言いましたよね?」いや、ですけど、殿「悠陽です。それと敬語も不要です」オレの話を、「昨夜は、悠陽と呼んで――」オーライ。状況は理解したぜ、悠陽」
何か昨夜、弾みで名前を呼んじゃったのを朧気に憶えてるんだが、そのせいかさっき、二人きりの時は名前で呼ぶようにお願い?された。……色んな意味で負い目のあるオレにとっては脅迫に等しいんだが。オレ的には昨夜の事は早く忘れて欲しいと、切に願うだけである。
「……今日は、16日かぁ」
三日近く寝てた事になるのか、オレ。くそ、時間を無駄にしてる余裕なんて無いはずなのに。何やってんだ、オレは。………ん、16日?
「あ、オレ誕生日じゃん」
……誕生日に、生まれ変わったような気分になるなんて、皮肉が利いてるぜ、全く。
「まあ、そうなのですか、白銀?」
「ああ、って、それなら悠陽も、今日、だよな?」
冥夜と同じ誕生日な訳だし、ちゃんと「本人」に聞いたから、間違いねえ。
「そなたの言う通りです、白銀」
「それじゃあ、HAPPY BIRTHDAY 悠陽! プレゼントが無い代わりに、誰よりも早いお祝いをって事で」
「ありがとう、白銀。でしたら、私もそなたに誰よりも早い祝いの言葉を贈りましょう。――そなたが今日生を受け、「現在」を生きている事に、心よりの感謝を」
「あ、ありがとうな、悠陽。そ、それにしても、誕生日が悠陽達と同じって言うのも、どういう縁なんだろうな? ぜ、「絶対運命」ってヤツで結ばれてたりして、アハハハハハハハハッ」
本当に真っ直ぐに、オレの誕生日を祝ってくれてる悠陽の気持ちが照れ臭くて、筋肉痛で痛む体で頭を掻きながらあらぬ方向を見やる。
「…………「絶対運命」で結ばれている」
だから、オレはこの時の悠陽の呟きを聞き逃してた。……この時のオレの一言が原因で、後に世界規模の大事を引き起こす事になるとは、夢にも思わなかった。…………イヤ、マジでよ?
で、この後悠陽としばらく話していると、朝食が運ばれてきた。流石、五摂家の朝食。材料は天然物だったんだが、哀しい事に味が判んなかった。何故なら、
「白銀、口を開けなさい。口を閉じていては、食べさせることが出来ませんよ?」
悠陽の「ア〜ン」攻撃!! そして、側に控えてる侍従長のおばさんが放つ殺人視線!! ………この状況で味が判るヤツを尊敬するね、オレは。
朝食の後、何かをやり遂げた清々しい表情の悠陽は、誕生日の式典の為に侍従長のおばさんと一緒に登城。オレは医者の診断を受けてから一日中休んでた。昼食と夕食は普通に食えた。マジ旨かった。……けど、夜、屋敷に戻ってきた悠陽が、オレに飯を食わせられなかった事をしきりに残念がってた。
「白銀ももう少しの間、待っていても良いではありませんか。せっかく、私の誕生日なのだから」
ちょっと拗ねたようにそんな事を言う悠陽。メチャメチャ、腹減ってたんだから、そんな事言わねえでくれよ。ちなみに、オレも誕生日ですよ? ………あと障子の隙間から、オレに殺人視線を向けないでくれ、侍従長のおばさん。
「――それではお休みなさい、白銀」
で、違う布団とは言え、同じ部屋の中で寝ようとする悠陽。あの、悠陽さん? 帝国的に一大事ですよ、この状況。……ほら、その証拠に、障子の向こうに死に装束を着た侍従長のおばさんが、短刀を用意して正座して待機してんですけど。
…………この状況で、オレに寝ろと? いや、マジに無理ですよ?
そう思ってたけど、寝れた。これはオレの神経が太いのか、それとも予想以上に体は休息を求めてたのか、どっちだろうな。………オレ的には後者だと、嬉しい。
――2001年12月17日(月)
この日の朝食は、何と悠陽の手作りだった。そして、当然の如く「ア〜ン」で食べさせられた。で、その後、悠陽は政務の為、登城。オレは昨日に引き続き、医者の診断を受けた。
「………うむぅ」
「あの、オレ、なんか変な具合なんですか?」
オレを診ていた医者の爺さんが唸ったのが気になって聞いてみる。
「変と言えば、変ではあるの」
「それじゃ、回復には時間が掛かるんですか!?」
「いや、明日には完調するじゃろう」
「………へ?」
「おまえさん、異常な体力しとるのう。まるで、八人分くらいの体力を持っとるみたいじゃ。回復も早い早い。若いと言う事は良い事じゃのう」
呵呵と豪快に笑う爺さん。この爺さんの言葉を信じるなら、明日には横浜基地に戻れるって訳か。
「おまえさんへの一番の良薬は、しっかり食って、休息を十分に摂る事じゃ。解るな?」
「……ちょっと、難しい条件な気がするんだけど」
「何を言うとるんじゃ。光栄な事ではないか。これで回復せなんだら、日本人として、男として失格じゃぞ?」
「………頑張ります」
でも、休養しなきゃいけないのに、頑張るって変だよな? まあ結局、この日も夕食の時も、寝る時も頑張る事になったんだけどな、うん。………本当に明日には完調出来るかな、オレ?
――2001年12月18日(火)
まだ、朝日も昇らない時間帯に、オレは煌武院邸の裏門前に立っていた。秘密裏に保護されたオレは、これまた秘密裏に帝都を出て、横浜基地に戻らなきゃいけない。
その手筈は既に整っており、オレは外で待機して居る車に乗り込むだけで良いとの事。
「――白銀、そなたの武運長久を祈っています」
「ありがとうございます、殿下」
そんな言葉を交わし合ってから、オレを見送りに出て来てる悠陽を、瞼に焼き付けるように見つめる。オレにはオレの、悠陽には悠陽のやるべき事がある。………だから多分、ここで「お別れ」って事になるから。
「―――ばいばい、悠陽」
オレは別れの言葉と共に歩き出した。……「その時」、悠陽にその言葉を、直接伝えられないと思うから。
「―――ばいばい、悠陽」
武が背中を向けた瞬間、聞こえたその呟きに、悠陽の脳裏に過ぎるイメージが在った。
――紫の武御雷に乗り込もうとしている誰かの背中を見送った――
――己の宿命を忘れ、半身であった妹の事を裏切って、想いのままに愛しい誰かの名を呼んだ――
「―――」
それは泡沫の夢。刹那の幻。けれど胸に、いや心に空いた大きな穴が齎す切ないまでの喪失感に、悠陽は歩き出した武の背中に、手を伸ばし声をかけようとする。
「―――」
だが、悠陽は何も言わず、伸ばしかけた手を下ろした。武の背中から「未来」へ進むと言う、強い「覚悟」を感じたから。垣間見た誰かの背中と同じだったから、悠陽には何も言えなかった。止める事は出来なかった。
―――「現在」を歩き出した武の背中を見送った悠陽の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
―――おわりがちかづいている。ひとりのせいねんがつむぐ、とてもおおきな、とてもちいさな、とてもたいせつな、あいとゆうきのおとぎばなしのおわりが―――
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